こんにちは。集団ではなく、一人の方が楽なんじゃないかと26歳にして中二病を発症したhagebeatsです。
なにせ無職なので、やろうと思えばずっと一人きりでいることも可能なので、1週間ぐらい一人でいました。いまはコンビニにいかずともAmazonで食料も調達できますしね。ところが異変が起きたのは誰とも話さなくなって5日目。
朝起きても全く食欲が湧かないんですよ。それでも無理やり朝食を食べても、喉の奥が塞がったような感覚があり、全く箸が進まない。
と思ったら6日目。朝起きられなくなりました。気だるさがマックスになり、低血圧っぽい感じ。どうにもこうにも体が重い。沼に落ちたみたいにベッドカバーが身体にしがみついてくる。
僕も一回自律神経がおかしくなって、1ヶ月ほど毎日頭痛が止まらなくなった経験があるんですが、その時と全く同じ症状でした。
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7日目思ってた通り、頭痛が止まなくなりました。やばい。これはやばい兆候だと過去の経験から瞬時に察知しました。ただ、察知はしたものの、その日は日曜。病院はどこもやってない。
という言葉だけが頭の中を駆け巡り、解決策が思い浮かばない。そんな時脳裏に浮かんだのは、なぜか実家だった。自分の家から電車で1時間半ほどのところにあるので、全然帰れる距離。僕は咄嗟の判断で重い身体をなんとか叩き起こし実家に帰った。
実家に着いたのは夕方の5時。実家では夕食の身支度が始まっていた。実家に帰って、別に自分が具合悪いことは伝えず、母親、父親、弟、妹と何気ない会話をした。本当に何気ない会話だから何の会話をしたのか覚えてない・・・でも、気づいた時には、喉の奥が詰まったような感覚も倦怠感も頭痛も消えていた。
無人島で一人は精神的にきつい
なんですうっと身体が軽くなり、調子がよくなったのかさっぱりわからなかったが、このことをルームメイトを話したらこんな返事が返ってきた。
無人島でサバイバルできるほどの屈強な男性でさえそうなのだ。それほど人との対話は重要であることが如実にわかる。確かに独房に入れられている囚人は、途中で精神がいかれてくるという話もある。
イマジナリーフレンドの出現
その映画は「キャスト・アウェイ」
人は対話なしで生きられない極限の状態まで追い詰められると、架空の人格を作り出したり、モノに話しかけることで対話できないストレスを解消しようとする。
こういった架空の人格をイマジナリーフレンドと言う。とは言っても多くの人は、無人島に一人といった極限の状態に陥ることはまずないだろう。映画の話であって、現実世界の話ではないと思ってしまうかもしれないが、イマジナリーフレンドという言葉が存在するのは、決して稀な例ではなく、多くの人にも自覚せずとも存在するからだ。
いじめや虐待を受けた子供
主にネグレクトや虐待、いじめや引きこもりになったなどの幼少期に孤独を苛まれた子供に生じやすいと言われている。
西原理恵子さんの「いけちゃんと僕」のいけちゃんはまさに「僕」のイマジナリーフレンドであろう。
自分のコンプレックスは人格化して現れると河合隼雄さんの本「コンプレックス」でも書いてあったが、まさにその例。
自分がいじめられたことに八つ当たりして虫をいじめる主人公を諭すいけちゃんは、まさに心の補償として作用しているように思う。自分の無意識下では虫をいじめることはよくないことだとわかっていても、意識的には虫をいじめることはよくないことだとわかっていないことを示唆しているように思う。
また、「いけちゃんと僕」でなんでもないシーンなのだが、いけちゃんが僕に向けて言うセリフで「きみが外をはしっているのをみるのが好き」と草原の中で駆け回る僕を遠目にみて言うシーンがある。いけちゃんは自分で作った愛着的存在。だから、安全基地から離れることを諭しているようなシーンにも思える。人は大人になっていく過程で安全基地が形成されると、外に冒険していく。ところが、「僕」は溺れかけた時に母親も妹も誰も助けてくれなかった疎外感を引きずっていた。だから安全基地が形成されなかったのだろう。その結果イマジナリーフレンドとして現れたいけちゃん。いけちゃんは、何より「僕」の自立を願っている。だから、いけちゃんから離れて一人で走っていく姿が好きなのだ。
大人でもイマジナリーフレンドは存在する
じゃあ、子供だけにイマジナリーフレンドが生じるのかというとそうでもない。大人でもイマジナリーフレンドを持っている人はいる。
わかりやすい例としてはファイトクラブという映画を見てもらうといいだろう。あまりネタバレしたくないので言及は控えるが、大人の場合解離性同一性障害という精神疾患の1つの症状としてイマジナリーフレンドとの対話が存在する。
最後に
話が飛躍しすぎたかにも思えるが、人は対話なしで生きれないのかもしれないということについて書き散らした。じゃ。